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『古い意識』から『新しい意識』に変容する

自分のなかにあるものを『観察』する(古い意識から新しい意識に変容する) サーアイアイ

 

今までの『古い意識(思考・感情)』を手放すために・・

 

『あたま』のなかの『雑音』や『映像』を受け流し・・

 

これからの『新しい世界』で、もっと自然に、もっと人間らしく、もっと『自分らしく』生きていくために『新しい意識(思考・感情)』に変容していこう!!。

 

ここでつかわれている『過去』は『過去世』も含む『過去』であり・・

 

今、ここ!!』とは『今にOK!!』をだし『過去』も『未来』もない今、この『場所(空間)』のこの『瞬間(時間)』に完全に集中していることをいうよ。

 

そして・・

今を生きる』とは・・

  • 今、する必要があること
  • 今、したいこと
  • 今、自分にできることを・・

『今、ここ!!』を生きながら、することをいうよ。

 

ここに載せているすべての内容は、ぼくサーアイアイが、自分のなかに深く入って、自分の中にある『影』を観察したことによる『体験』と『洞察』に基づいているものだよ


地球は『周波数』が高くなり、これからは本来の姿』をとりもどし楽園の世界』=『統合・調和の世界』である自然に還るようになってきていて・・

 

『✖(バツ)』をつけて否定することなどない、すべてが『愛』と『感謝』でつながり、めぐりめぐっている全体性』に『回帰』するようになってきているよ。

 

そのため・・

『○(まる)/✖(バツ)』をつけてしまう『善悪の判断』を越え『無条件の愛』で『ありのままの自分』を愛し、自分の本当の『気持ち』や『望み』である『本心』に素直に正直になって『本性』を発揮していくことがたいせつになってきているんだ。

 

この世は『白い部分』も『灰色の部分』も『黒い部分』もあって、自分自身も『いいところ』や『素敵なところ』があるものの『ダメダメなところ』や『醜いところ』も『本性』にかくし持っているものであり・・

 

こんな『本性』があることにすら気づくこともできず、たとえ、こんな部分があることに気づいたとしても、認め許すことは、たやすいことではないんだ。

 

けれど・・

こんな『本性』をもっているどんな自分も『あたま』であれこれ判断して『✖(バツ)』と『決めつける』ことなく、否定しないでいるというのが『全体性』に『回帰』するということになり・・

 

ちょっと、ドジなところも、ズルなところも、ズボラなところも、甘ったれなところも、無神経なところも、ワガママなところも、毒舌家なところもある自分に『✖(バツ)』をつけて、かくそうとしたり、そうならないように『禁止』したり『欲圧』するよりは・・

 

そんなところもある自分の『個性』を認め許し、社会生活に支障がない程度にほどよく『禁止』や『抑圧』をほどき『表』にだしてあげながら、自分の『個性』を磨くことができると『魅力』となって輝きだし『自分らしく』いることに『リラックス』できるようになるんだ。

 

すると・・

「○○なところはあるけど、なんか憎めないよなぁ~」とまわりの人たちから『愛』されるようになるんだ。

 

とはいえ・・

この世は『多様性』な世界だから、そんな『個性』に『○(まる)』をつける人がいれば、必ず『×(バツ)』をつける人も現われるものであり・・

 

『考え方』や『感じ方』はそれぞれ違っていてよくて、どっちが『いい』とか『正しい』とかいうこともなく、また、その違いを『理解』できてもできなくても『尊重』することができればいいのであり・・

 

「自分は自分、人は人であり、自分はこれでOK!!」と言ってあげられるほど『図太い神経』になれれば、人の言うことやふるまいに『振りまわされる』こともなくなるんだ。

 

この例えとして・・

『海の魚』が『川の魚』に「この塩辛い水は、栄養たっぷりでおいしいんだよ・・」と言っても『川の魚』には全く『理解』できないし・・

 

『川の魚』が『海の魚』に「きみの体は派手過ぎて気持ち悪い」と言っても『海の魚』は「この色がぼくの自慢だんだ。きみには、ぼくのカッコ良さはわからないだろうけどね・・」と笑って言えればそれでよくて・・

 

生きている世界、描いている世界が違っていれば、当然『理解』できないこともあるけれど「みんな、違うから・・」と『尊重』して・・

 

『海の魚』は海で『川の魚』は川で生きることで、互いに『干渉』しあわずにいられるから、気分よく生きていけるんだ。

 

これからの『新しい世界』で『自分らしく』生きていくために、以下のことを自分に言い聞かせよう!!。

  • 自分の『こころのままに』素直に正直に生きてもいいんだよ
  • 自分がしたいこと・好きなこと・得意なことを仕事にして、毎日をワクワクと生きていいんだよ
  • 自分の人生を自分で『しあわせ』にしていいんだよ
  • まわりにいる人たちとは*『程よい距離』を保ちながら愛を交わしあえばいいんだよ

この*『程よい距離』とは『気』が合う人とは、近距離で親しくしていればよく、互いを『干渉』しあってしまう人とは『笑顔』を交わし合えるようなちょうどいい距離を保つようにすればいいということであり・・

 

互いの『ものの考え方(思考)』や『ものの感じ方(感情)』や『ありよう(姿)』や『ふるまい(行動)』を互いに認めあい受けいれるためにも『程よい距離』がとれるようになると、互いの『多様性』や『自由』を『尊重』できるようになるからなんだ。

 

これからは、こんな『多様性』や『自由』を『尊重』できる『新しい世界』で生きていくために、今までの『古いパターン』を手放し『新しいパターン』に慣れていくことで『自分らしく』生きられるようになってきているんだ。

 

そのために、自分のなかにあるものを『観察』しながら・・

 

自分の気持ちを抑えこまず、素直に『本心(自分の本当の気持ちや望み)』や『本音(きれいごとでは語れない気持ち)』を伝え『ありたい姿』になっていけるよう『ふるまい=言動』を変えていけばいいのであり・・

 

人が伝えてくれる『本心』や『本音』にも素直に耳を傾け、人の『ありよう=姿』や『ふるまい=言動』に対しても『尊重』できるようになってくれば、互いに『干渉』しあうこともなくなってくるんだ。

 

とはいえ、イヤなことをされたら「イヤです」と伝え、自分を守るためにすべきことをするのは当然なことではあるけどね。

 

こうして・・

自分にも人にも『寛容』に『やさしく』なることができると、不必要に人や出来事に『疑心暗鬼』になることも少なくなり、自分や人を『信頼』し『自然の流れ』に身をまかせておくことが少しずつできるようになって・・

 

最終的には『あたま』であれこれ考えず『こころのままに』あることで『本来の姿』の『本当の自分』にもどり『自分らしく』生きられるようになるんだ。

 

なので・・

今までの慣れ親しんだ『コントロールの世界』による愛のなかで生き抜くために身につけた古い『思考⇒あたま』や『感情⇒こころ』である『古い意識(思考・感情)』から・・

 

『こころのままに』生きられる新しい『思考⇒あたま』や『感情⇒こころ』である『新しい意識(思考・感情)』に変容して『勇気』をだして、今までとは違う『行動⇒ふるまい』に変えていこう!!。

 

こういう変化のときには『精神⇒あたま』にも『情緒⇒こころ』にも『身体⇒からだ』にも、さまざまな『変調』が現われ、今まで『経験』したこともないような『不調』を感じるようになったり・・

 

慣れ親しんだ『場所』や『人』から離れるような大きな『変化』もある場合があり、相当な『ストレス』を感じるようになるはずだから・・

 

自分なりの『ストレス解消法』や『自然な生き方』をあれこれ試しながら、いつもよりずっと自分に『やさしく』なって、自分をいたわったり、おもてなししながら『命(魂)』を『よろこばせる』ようにしていると『あたま』と『こころ』と『からだ』はゆるやかに整えられるようになってくるよ。

 

もし・・

『あたま』や『からだ』や『こころ』の『不調』や『痛み』が慢性的に続くようなら、それは、自分の『影』である『内なる傷ついた子ども』が、まだまだ苦しんでいるということであり・・

 

「もっと『本当の自分』を認めて自分を生きてよ~」「弱い自分のこともさらけだしていたわってあげてよ~」「自分が本当に望んでいることをさせてあげてよ~」と泣き叫び、気づいてほしくて『不調』や『痛み』をとおして『サイレン』を鳴らし続けているということになるよ。

 

特に、普段から人に迷惑や心配をかけまいとしていたり、自分のまわりにいる人にとっての『いい子・いい人』であろうとしていたり、人の期待に応える自分でなければならないと思っていたり、自分が考える『理想』の姿であろうとして・・

 

いつまでも自分の『本心』を表にだすことができず『内なる傷ついた子ども』の叫びを聴こうともしないで、見て見ぬふりをして『無視』し続けていると・・

 

『精神』は『バランス』を失い『情緒』は『不安定』になり『ホルモン』や『自律神経』や『免疫』にまで影響がおよび『あたま』や『こころ』や『からだ』は『不調』や『痛み』が絶えなくなり『未病(病院で検査しても特に異常はないと診断される)』のような状態になり・・

 

この状態を放置していると、やがて本当に『病気』になってしまうこともあるから、自分の『からだ』と『こころ』の声に耳をかたむけて自分に『やさしく』なってほしいんだ。

  • 疲れてしまったら、休んでもいいんだよ
  • 無理して頑張って自分を苦しめなくていいんだよ
  • 『いい子・いい人』を卒業してもいいんだよ
  • 人の顔色をうかがい『期待』に応えようとしなくていいんだよ
  • 近くにいる人が不機嫌になっているのは、きみが悪いわけではないんだよ
  • イヤだったら、イヤといってもいいんだよ、それか逃げてもいいんだよ
  • 自分ひとりでかかえこまないで「助けて~・・」と声に出していいんだよ
  • カッコ悪い自分を見せたっていいじゃない

と、自分に言い聞かせて、苦しんでいる自分を自分で救ってあげるために、信頼できる親しい人や公共の相談員やカウンセラーやセラピストなどに・・

 

自分の『本心』や『悩み』を打ち明け相談にのってもらったり『愚痴』や『弱音』を聞いてもらい、自分の『気持ち』を『表』にだしてあげてほしんだ。

 

そうすれば・・

『内なる傷ついた子ども』は、自分のことをわかってくれようとしていることに『ホッと』して『こころ』が軽くなったり『気分』が晴れたり、穏やかになったりしながら『こころ』の整理もでき、自分の深いところにある本当の『気持ち』や『望み』にも気づけるようになってくるんだ。

 

そしたら・・

これを機会に『本当の自分』に 『ウソ』をついたり、ゴマかしたり、飾ったりせず、自分の『弱さ』や『ダメなところ』も認めて許し、要らない『プライド』も捨てて『はだかの自分』を見せながら・・

 

本当の『気持ち』や『望み』が、かなえられるようにしてあげよう!!。

 

なんでも自分ひとりでかかえこんだり『解決』しようとしたりせず、もっと人を『信頼』して、自分の本当の『気持ち』や『望み』をかなえてあげられるよう、相談したり、時には頼ったり甘えたり、なぐさめてもらったりして、支えてもらうことを自分に許し、そんなふうにできるよう『意識』して『努力』してみよう!!。

 

『意識』するということは『そうなるようなエネルギーを注いでいる』ということであり『努力』は『そうなるようにふるまっている・動いている』ということになるよ。

 

そうしないと、ぼくらは『無意識』のうちに、いつもと同じような『ネガティブ』な『こと(思考)』に『あたま』を働かせ、いつもと同じようなイヤな『気持ち(感情)』になって『精神』や『神経』を乱れさせながら、いつもと同じような『ふるまい(行動)』を繰り返す『パターン』から抜け出せなくなってしまうから・・

 

まずは『新しい意識(思考・感情)』になっていけるよう『考え方』や『感じ方』を楽な方『ポジティブ』な方にもっていけるように繰り返し『修練』していると、それがすこしづつ『習慣(よい癖)』になって身につくようになるよ。

 

でも、決して無理はしないで、いてほしいんだ。

 

『あたま』でわかっていることでも『こころ』の準備が整っていないと、かえって思うようにいかず『不満』や『怒り』や『焦り』がでてきて、自分を責めてしまうようになるから・・

 

「だいじょうぶ・・きっと、できるようになる!!」と自分を励ましながら、自分の『ペース』ですこしずつ『思考』と『感情』と『行動』を変えていくようにしていれば『新しい意識(思考・感情)』に変容できるようになるよ。

 

この『過程』において・・

自分ひとりでなにもかもするのではなく、人の『支え』や『助け』や『温もり』によって互いに『支えあって生きていく』のが、やっぱり自然であり、自分もそうなっていけることがわかるようになると・・

 

虚勢をはってきた『鎧』を脱ぐことができ、自分のまわりにいる人を『信頼』することができるようになり『意識』も変容しやすくなってくるよ。

 

そうして・・

すこしづつ緊張していた『あたま』と『こころ』を解きほぐしてあげられるようになると『自己肯定感』と『自尊心』が高くなり・・

 

人を『信頼』しながら『ありのままのはだかの自分』を見せ『自分らしく』生きていくことに『OK!!』をだせられるようになり、自分にとって『楽に』なることや『楽しく』なることに『アンテナ』を向けられるようになるんだ。

 

なので・・

『自分らしく』生きていくために、どんなに小さなことでも自分が望むことをひとつひとつかなえてあげられる自分になっていこう!!。

 

今まで、できないと『決めつけてきた』ことや、やってはいけないと『思い込んできた』ことでも『勇気』をだして一歩、踏みだし、まずは動いてみよう!!。

 

そうやって、一歩、また一歩と進みながら、自分が一番、望んでいることをかなえてあげられるように『努力』していると『命(魂)』は『よろこぶ』ようになり『あたま』や『こころ』や『からだ』の『不調』や『痛み』もすこしずつ和らぎ・・

 

『内なる傷ついた子ども』は『こころの傷』が癒され、元気になることで『本来の姿』の『本当の自分』にもどっていけるようになるんだ。


先ほどお話したとおり、地球の『周波数』が高くなってくると同時にぼくらも、さまざまなことに『感度』がよくなり、今まで感じることができなかったことまで『五感』や『第六感』とおして感じとることができるようになり、今までなりを潜めていた自分の『影⇒内なる傷ついたこども』のことまで気づくようになってきているんだ。

 

自分のなかにあるものをよ~く『観察』していると、ぼくらのなかには、色んな『考え方=思考』や『感じ方=感情』や『ありよう=姿』や『ふるまい=言動』をしている人たちが『影』のなかに存在し、ぼくらと同居していることがわかるようになってくるよ。

 

そんな『影』たちによる『ネガティブ』な『つぶやき』が『ラジオ』の『放送』のようにひっきりなしに繰り返され、それにともなう『ドラマ』の『映像』が『無意識』のうちに流れているため・・

 

外からやってくる『刺激』が『ひきがね(トリガー)』となり『過去』の『こわいドラマ』にチャンネルがつながってしまうと・・

 

『あたま』は『ネガティブ』なことで『グルグル』して『こころ』は『モヤモヤ』し『からだ』も重い感じになって気分や体調がすぐれなくなってしまうんだ。

 

『こわいドラマ』の『チャンネル』につながる サーアイアイ
『こわいドラマ』の『チャンネル』につながる

 

こうして・・

『経験』してきたことをもとにかけている『メガネ』によって『事実』とは違う『誤解』や『誤認』をしては『真実』を歪めるような『見方』や『考え方』をしてしまうため・・

 

自分や人や出来事に『✖(バツ)』をつけては『否定』して、自分や人を『尊ぶ』ことができなくなったり、起きている出来事も受けいれることができなくなってしまうんだ。

 

また・・

自分に『✖(バツ)』をつけ『否定』していると『無意識』のうちに『自己卑下』していることにもなり「自分なんか・・」「どうせ・・」という言葉が自動的につぶやかれ・・

 

『夢』や『希望』をかなえ『しあわせ』になろうとすることに『罪悪感』や『おそれ(こわいと感じる)』を感じてしまい、思うようにいかなくなってしまうんだ。

 

そうして・・

  • 自分を楽しませたり心地よさを感じさせて『しあわせ』に生きようとすることに、居心地の悪さを感じたり、拒んだりして→その結果、普通なら『しあわせ』や『よろこび』を感じることに『罪悪感』や『おそれ(こわいと感じる)』を感じ避けてしまうようになったり
  • 人に『やさしく』されたり『愛』をいただくことに『申し訳ない』気持ちばかりがつのり、人からの『やさしさ』や『愛』を素直に受けとることが苦手になり→その結果、なにかしてもらったらお返しせずにはいられなくなったり、自分自身も見返りを求めるようになったりして、人と『愛』を交わし合うことに『こころ』ではなく『あたま』をつかい『愛のかたち』をつくることばかりに囚われ、人とほどよい『距離』をとることが困難になってしまったり
  • 自分を悲劇の主人公に仕立てているため『こころ』のなかにぽっかり空いた『穴』や『欠け』を自分で埋めることができず、どんなにまわりの人から『やさしさ』や『愛』を受けとっていても『しあわせ』を感じることができず→その結果、人の『愛』を『信頼』できないのにもかかわらず、惹かれる異性にほんのすこし『やさしく』されただけで、それを本当の『愛』だと勘違いして、その異性のために尽くそうと苦労を背負ったり、よからぬ道にひきずりこまれたりしてしまうんだ

さらに・・

『メガネ』によって、ものごとを『ネガティブ』な方にとらえてしまう自分は『想念』が汚れている『醜い人間』などと思ってしまうと、追い打ちをかけるように自分をおとしめ苦しめてしまうことになるから気をつけてほしいんだ。

 

『メガネ』をかけてしまっているのには、それなりの『過去』があったからなのであり『過去』は消すことができず『✖(バツ)』をつけて否定してしまうと・・

 

今までの自分や、今まで自分と関わりがあった人や出来事に『✖(バツ)』をつけて否定しては、責めたり苦しめたりすることを繰り返すばかりで『過去』に囚われたまま『負のループ』から抜け出せなくなってしまうから・・

 

『○(まる)/✖(バツ)の善悪の判断』をしないというより『善悪の判断』を超えていくという『意識(思考・感情)』に『シフト』して、自分の『過去』を認めていく必要があるんだ。

 

とはいっても・・

『善悪の判断』を超えていくのは、とてつもなく難しいことでもあるんだ。

 

なぜなら・・

ぼくらの『あたま』のなかでは『無意識』のうちにひっきりなしに『善悪の判断』がなされていて・・

 

自分や人や出来事に向って『文句』や『悪口』や『不平』や『不満』や『批難』や『批判』や『嫉妬』それに『不安』や『心配』や『不信』を『ブツブツ』つぶやいているからなんだ。

 

特に・・

苦しすぎたり辛すぎたり厳しすぎる『過去』を経験していたり、今の現実も『苦悩』の連続で『イヤな気分』にさせられることばかりだったり、人の『苦』や『荷物』を背負い『苦労』が絶なかったり、頑張っているのに全く報われなかったり、いつも同じようなことで『つまずき』苦しんでばかりいると・・

 

「もうイヤだ」「どうしたらいいのかわらかない・・」「もう、生きるのが辛すぎる・・」と自分や人や出来事に『✖(バツ)』をつけて『悪』としか思えず・・

 

こうやって『✖(バツ)』をつけてしまうと、そこから抜け出せなくなり『絶望的』になって、自分を自分で傷つけたり、人を傷つけたり、人生を投げてしまったりすることもあるんだ。

 

つまり・・

ぼくらは『無意識』のうちにしている『善悪の判断』によって、知らぬ間に『ストレス』をかかえてしまっているということなんだ。

 

それに・・

あるひとつの『考え方』や『感じ方』や『ありよう』や『ふるまい』だけを見て、これは『善』これは『悪』と、いちがいに判断できないこともたくさんあり・・

 

単純な例として、手で食事をするのはお行儀が悪いとされている国もあれば、手で食事をするのが礼儀であり食事もおいしくなるとされている国もあるよ。

 

複雑な例としては、約束を守れずたいせつな人をひどく悲しませ、二度と会えなくなってしまったということがあった場合、ここだけを切りとると、約束を守らなかった人はひどいことをしたということになるけれど・・

 

実際は、待ち合わせの場所に行く途中で事故にあってしまい連絡がとれなくなり、約束が守れずたいせつな人を悲しませてしまったことをずっと悔やんでいて、そのことを謝ろうと、その人を探し続けているという『事実』が加わると『善悪の判断』はできなくなるよね。

 

こんなふうに・・

  • 『場所』が違っていたり
  • 『年代』が違っていたり
  • 社会の『ルール』や『教え』が違っていたり
  • 見る『角度』や『とらえ方』や『ものさし』が違っていたり
  • そこに至るまでの『過程』や『事情』が違っていたりすると・・

『善』か『悪』か、いちがいに判断できなくなり、ものごとの『善悪を判断』するのはとても難しいことともいえるんだ。

 

人は誰しも完全に『正しい』ことだけをして生きることはできず、自分でも思いもよらない『誤り』や『失敗』や『過ち』をしてしまうこともあるものであり・・

 

また、人から受けた『痛み』や『苦しさ』や、思いもよらない出来事によって受けた『傷(意識できる傷もあれば、意識できない傷もある)』を誰もが多かれ少なかれ、かかえているものであり・・

 

そんな『過去』があったからこそ・・

  • 『誤り』や『失敗』や『過ち』を繰り返さないようにすることができたり
  • イヤなことをされた人の姿が『反面教師』になって、自分はそうならないようにすることができたり
  • 『過去』に受けた『傷』があるからこそ、同じことで苦しんでいる人の気持ちを『理解』し思いやる『やさしさ』を持てるようになれたりして・・

『悪い』こととみなされてしまう『過去』であったとしても、起きることのなかにはすべて『魂』の『成長』や『進化』のための『気づき』や『学び』が得られるようになっていて・・

 

その道はいつかは『とおる道』として、後々の自分を活かし助けてくれる『糧』になっていくものなんだ。

 

なので・・

そのことに『感謝』できるようになると、自分の『過去』に『ゆるし』がなされ『魂』は『浄化』されるようになるんだ。

 

けれど・・

『過去』をゆるせず、いつまでたっても『過去』に囚われていると『過去』の『痛み』をひきずったまま逃れることができなくなり『魂』は『よどんだ』ままになってしまうんだ。

 

『善悪の判断』を超え、人や自分や出来事をゆるし『過去』の囚われから自分をほどき『自由』になることができると『夢』や『希望』も描けるようになれて、自分を自分で『しあわせ』にすることができるようになるんだ。

 

だから・・

どんな『過去』があったとしても『今の自分』は『過去』からひとつづきにつながっている自分であり・・

 

自分を自分で『しあわせ』にするために、今を精一杯『善』なる気持ちで生きていれば『今の自分』が『未来の自分』をつくり『しあわせ』な道へと導いていけることを『理解』できるようになると・・

 

『善悪の判断』を超えるという『新しい意識』に変容することのたいせつさがわかるようになるんだ。

 

ところで・・

この世のなかには『してはいけないこと』があって、人や自分や地球を『悪意』や『我欲』で傷つけたり『イヤな気分』にさせてしまうことを『悪(あく)』と名づけて『✖(バツ)』をつけているよ。

 

その一方で『したらいいこと』もあって、人や自分や地球を『こころ』からわきあがる素直な気持ちで『笑顔』にしたり『安らぎ』をあたえることを『善(ぜん)』と名づけて『○(まる)』をつけているよ。

 

こんな『悪』と『善』の判断ができ『善』なる『考え方』や『感じ方』や『ありよう』や『ふるまい』ができることは、とても素敵なことであり、これにより『魂』は癒され『成長』できるようになるんだ。

 

けれど・・

人や地球を『悪意』や『我欲』で傷つけたり『イヤな気分』にさせてしまうことは、結局は、めぐりめぐって自分を自分で傷つけ『イヤな気分』にさせてしまうことにつながっていくんだ。

 

ということは『善』なる気持ちで生きていれば、めぐりめぐって自分を『笑顔』にできることにつながっていくことはわかるよね。

 

ここで・・

『人を傷つけてしまうこと』には『2種類』あることについて、すこしだけ考えてほしいんだ。

  1. 『悪意』や『我欲』の気持ちをもって、人を故意に傷つけること
  2. その人のことがたいせつで、なんとかしたいというおもいでした『言動』でも、その人にとっては認めたくないことを指摘されたり、あまりにも『的を得て』いることを言われたりするとその言葉が胸にグサリと刺さって傷つけてしまうこともある

『してはいけない』のは、どちらだと思う?・・きみならわかるよね。

 

『してはいけない』のは、1.の方であり、2.をしてしまったからといって、自分を責めたりなんかしなくていいんだ。

 

2.で傷ついた人は、きみの『本当のやさしさ』にそのときには気づけなくても後になって、きみの『本当のやさしさ』がわかるときが必ず来るから・・。

 

このように・・

人のことも自分のこともたいせつだからこそした『言動』であっても、人や自分を傷つけてしまうこともあるものなんだ。

 

けれど・・

傷つくことを恐れてばかりいたら『信頼』しあうことも、お互いに『成長』しあうこともできなくなってしまうんだ。

 

だからこそ、傷つくことをおそれずに自分の『本当の気持ち』に『ウソ』をつかず『本心』を交わしあうようにしていれば、最終的にはすべてうまくいくようになるんだ。

 

なぜなら『まごころ』でしたことであれば、そのおもいはきっと伝わるからなんだ。


『古い意識』から『新しい意識』に変容する『過程』においては、今までため込んできた『ネガティブ』なものがあふれでてくるようになるから・・

 

どれほど『ダメダメな自分』であっても『弱すぎる自分』であっても『不幸がしみついているような自分』であっても『どん底な自分』であっても・・

 

自分にも人にも出来事にも『文句』や『悪口』や『不平』や『不満』や『批難』や『批判』や『嫉妬』を止められない自分であっても・・

 

『過去』の自分や人や出来事を悔やんでいたり、憎んでいたり、恨んでいたり、また『未来』に『不安』や『心配』や『不信』などの『おそれ』ばかりを感じている自分であっても・・

 

『自己憐憫(じこれんびん)=自分で自分をかわいそうだと思いこむこと』や自分は『汚れている』というおもいにより『自己嫌悪』を止められず、自分を責めたり傷つけてしまう自分であっても・・

 

まずは、こんな自分に『✖(バツ)』をつけずに、自分で自分を抱きしめてあげよう!!。

 

『意識』の変容の『過程』では『過去』からひきずっている『課題』に直面させられ、とんでもない『苦悩』に見舞われるようになるため・・

 

次から次へと『怒り』や『憎しみ』や『恨み』や『不安』や『心配』や『不信』などの『おそれ』がわきあがってきてしまうだろうけれど、これもわかってあげながら・・

 

泣きたかったら思いきり泣かせてあげよう、くやしかったら思いきりわめかせてあげよう、怒りたかったら思いきり怒らせてあげて、辛い『感情』をとことん吐き出させてあげよう。

 

そうして・・ 

どんなに辛く苦しくても自分を腐らせたり壊したりしないでいるために、自分ができる範囲で、今、する必要があること、したいこと、できることをすると決めて、とにかく『今を生きる』ようにすることで『正気』を保ちながら踏ん張ることが『意識』の変容においてはたいせつになるんだ。

 

今、する必要があること、したいこと、できることが、何なのかわからないときは・・

  • 今、感じている『不安』や『苦悩』や『不満』
  • 『ありたい姿』『ありたい世界』
  • こどものころ夢見ていたことや好きだったこと

などをノートに思いつくまま書き出していると、抱えている『問題』がどんなことかわかるようになったり、自分の本当の『気持ち』や『望み』がわかるようになったりして『今を生きる』ためにどうしたらいいかがなんとなくわかるようになってくるよ。

 

そでれも、わからないときはノートに書き出す代わりに、だれか信頼のできる人に自分のことを話していると、気持ちの整理ができたり、する必要があることがすこしづつわかるようになってくるだろう。

 

もちろん、生きるための最低限のこと(衣・食・住に関わること)と目の前にある『問題』に対処することが優先にはなるけれど・・

  • 心身を休めたいと感じるのなら、誰になんて言われようと『休養』をとることを自分に許し、心身をいたわるようにしてあげればいいんだ
  • そこから逃げだしたいと感じているのなら、逃げてしまえばいいんだ
  • 今、自分にできることが思い浮かばないのであれば、とにかく『楽しく』なれることをすればいいんだ

どんなことであれ『こころ』で直感的に感じたことをすればいいんだ。

 

ただ・・ 

これが『直感』から感じているものなのか『ヘビ』の『そそのかし』によるものなのかを見極める必要はあるんだ。このことについては、後ほど詳しくお話しすることにして・・

  • 自分の努力でなんとかなることは、全力を尽くしてやってみればよく
  • 自分ひとりだけではどうにもならないことは、人の力を借りて助けてもらえばよく、助けてもらうことが『魂』の学びになるよ
  • 自分の努力や人の力を借りてもどうにもならないことは、もう神様におまかせしてしまおう・・

とにかくあれこれ考えることをやめて『今を生きる』ために『今にOK!!』をだし受けいれて、今を精一杯、生きるようにしよう!!。

 

受けいれることができないと『ネガティブ』なことが『あたま』のなかで『グルグル』して前に進むことを足止めされてしまうからね・・。

 

もし・・

『こころ』でどんなことを感じているのかわからないときは『あたま』が『ネガティブ』なことで『パンパン』になっているということでもあるから、とにかく『あたま』を空っぽにできるようにしよう。

 

自然に触れ『五感』を研ぎ澄ませているとだんだん『リラックス』できて『あたま』はほぐれ空っぽになりやすくなるよ。

 

すると・・

『こころ』もだんだん落ち着いてきて『こころ』で感じていることがわかるようになってくるだろう。

 

そうして・・

自分が望んでいることやする必要があることがわかったら、まずは『勇気』をだして、まわりにいる人や公共の相談できる人たちに『自分の気持ち』を伝え、頼ったり、助けてもらったりして、なんとか自分の望みをかなえてあげられるようにしていくことがたいせつになるんだ。

 

ただ・・

このように『自分の気持ち』を人に打ち明けることが、実は、一番、難しく、これができないと、自分を苦しめ追いつめてしまうことにも気づいてほしいんだ。

 

もしかしたら・・

何度か『本心』や『本音』を伝えようとしたのに、なかなかわかってもらえたかったり『期待』を何度も裏切られたりしたことがあると、人を『信頼』することがこわくなってしまうよね。

 

それに・・

人に助けてもらうなんて、こんな『情けない自分』になってしまうことも自分の『プライド』が許さなくなっているのなら・・

 

もう、こんな『プライド』もかなぐり捨てて『弱い自分』をさらけだして、人を『信頼』することで自分の『本当の気持ち』を伝えることができるようになれれば、自分を自分で救いだしてあげることができるようになるという『意識(思考・感情)』に変えていくことがたいせつになるんだ。

  • 「どうせ、自分なんか・・」「うまくいくはずがない・・」という『自己卑下』や『自己否定』
  • 「どんなときも強くありたい」「いつでもできる自分、頼られる自分でいたい」という『虚勢』や『プライド』
  • 「自分がやらなくては・・」「自分が我慢すればいい・・」と自分を追いやったり、後回しにしてしまう『自己犠牲』

これら、自分をおとしめたり苦しめたりする『癖』を手放して・・

 

自分に『やさしく』なれるよう『意識(思考・感情)』を変えて『行動(ふるまい)』も変えるようにしていこう!!。

  • 自分の『本当の気持ち』をたいせつにすることは、少しも『わがまま』なことではないんだよ
  • 『ダメダメな自分』だって『至らない自分』だって、本当は『弱い自分』だっていいんだよ
  • 『いい子・いい人』『理想的な姿』になることより『本当の気持ち』に素直に正直になっていいんだよ
  • 自分の人生は自分のものなんだから、人に決められたり、人の世話ばかりすることより、自分の人生を自分で決め、自分を自分で『しあわせ』にしてあげていいんだよ

と言い聞かせ、もう自分に『ウソ』をついたりゴマかしたり『ムチ』を打って苦しめるようなことはやめて、自分が『楽に』なれるようにしてあげればいいんだ。

  • 自分が自分に『やさしく』なれれば、まわりの人にも『やさしく』なれる
  • 自分が『笑顔』になれれば、まわりの人も『笑顔』にすることができる
  • 自分が『自分らしく』いられれば、まわりの人も『自分らしく』いられるようになる

このように・・

いつでも自分が『源泉』になっていることに気づき、自分を『楽に』して『自分らしく』いられる『意識(思考・感情)』に変容して、今までとは違う『行動(ふるまい)』をすることで自分を『笑顔』にできれば・・

 

そんな姿を見ている神様は、もっと『笑顔』になれるような『道』にどんどん導いてくださるようになるよ。

 

なにしろ、神様はぼくらが『笑顔』でいることをなによりよろこび、いつでも応援して見守ってくださっているからなんだ。

 

すぐにこんなふうに『意識』を変えられなくても・・

 

きっと『本当の自分』になって『自分らしく』生きていける、だいじょうぶ、変われる!!・・と自分に言い聞かせ『神様の愛』を信じて、気を『楽に』して『希望』を失わず上を向いていこう!!。

 

『どん底』まで行ったら、あとは、上に上がっていくしかなく、これ以上『事態』が悪くなることはないから、少しづつでも『よい方向』に向かって『楽に』なっていけることを信じて乗り越えよう・・きみならきっと、できるはずだよ☆。


とはいえ・・

いつでも『いい子・いい人』であろうとしていたり『ほめられるような生き方』をしようとしている人や『完璧主義』の人にとっては・・

 

『できる自分』『素晴らしい自分』『完璧な自分』でいなければならないと強く思い込んでいるため『過去』の『誤り』や『失敗』や『過ち』を許すことや自分の『至らなさ』や『欠け』や『弱さ』を認めることは、とんでもなく難しく『善悪の判断』を超えることは難しいことになってしまうんだ。

 

それで・・

自分のダメなところばかりに目がいき、自分がしてきたことやできていることに目がいかず、絶えず「こんな自分じゃダメだ!!」「思うような結果になっていない・・」とつぶやいては『✖(バツ)』をつけてしまうため・・

 

自分を自分で責めたり苦しめたりする『あら探し名人』をやめることができなくなってしまうんだ。

 

こういう人にかぎって、人のことも『できていること』や『素敵なところ』を見つけるより、まずは『至らないところ』や『欠けているところ』にばかり目がいき『✖(バツ)』をつけては『悪』とみなしてしまうため、人のこともひっきりなしに『不平・不満』や『悪口』が絶えず『無意識』のうちに責めたり苦しめたりしてしまうんだ。

 

けれど・・

自分も含め、だれでも多かれ少なかれ『至らなさ』や『欠け』や『弱さ』はあるものだし『誤り』や『失敗』や『過ち』だってしてしまうのが自然なことでもあり・・

 

むしろ、こんな『不完全』なものどうしだからこそ、互いにつながり、補いあい・助けあい・支えあい・学びあうことで、互いが『完全』になれるように神様はしてくださっているんだ。

 

だから・・

どんなに『ダメダメ』なところがある自分であっても『善悪の判断』を超えて、まずは、自分に『○(まる)』をつけ肯定する『自己肯定感』とどんな自分でも自分に『やさしく』なって自分を尊びたいせつにする『自尊心』を高く保つようにしていると・・

 

自分を『無条件の愛』で愛することができるようになってきて、人のことも『無条件の愛』で愛することができるようになってくるんだ。

 

そうすれば・・

自分のことも人のこともひっきりなしに責めたり苦しめたりすることがなくなり『こころ』も『からだ』も穏やかに安らぎ『楽に』なっていけるんだ。

 

とはいえ・・

ここで『ジレンマ(相反することの板ばさみになること)』が生じていることに気づいているだろうか・・

 

『不平・不満』や『悪口』をつぶやき、自分や人を『批難』したり『批判』して責めてしまうことを『無意識』のうちにしてしまうことを、実はやめることができないんだ。

 

先ほどもお話したとおり『白』があれば『黒』があり『光』があれば『闇』があるというように、この世には相反することが必ず、存在しているからなんだ。

 

『無条件の愛』で愛するとは『自然=神様』と同じような『愛』で愛することをいうんだけど・・

 

自然は、どんな姿であっても『✖(バツ)』をつけて否定することなく、何かの条件をつけることも何の報酬も求めず、すべてに等しく『自然の恵み』である『太陽』や『空気』や『水』や『土』をあたえてくれて、ぼくらを愛し生かしてくれているよね。

 

花や木は、ぼくらに『怒り』も『憎しみ』も『恨み』も『特別な好意』ももたず「○○が正しい」「◇◇はいけない」「△△は□□であるべき」などということも言わず、ただそこに『存在』しているだけで『空気』をきれいにしてくれたり、ぼくらをほっと和ませ癒してくれるよね。

 

こんなふうに・・

『✖(バツ)』をつけて否定することもなく、かといって特別に何かをしてくれているのでもないけれど、ただ、そこに『存在』しているだけで『見返り』も求めずこの世に『奉仕』してくれて、あたりもさわりもしない『空気』みたいになっている・・

 

これが『無条件・無償の愛』ってことになり・・

 

小さなこどもの『邪気のない姿』は『無条件の愛』に近いともいえるんだ。

 

ところが・・

ぼくらの『あたま』のなかの『無意識』のなかでは「○○が正しい」「◇◇はいけない」「△△は□□であるべき」という『つぶやき』が『ラジオ放送(雑音)』のようにひっきりなしに流れていて・・ 

 

自分ではまったく気づくことができなくても『無意識』のうちに、人や自分や出来事に『善悪の判断』をして『✖(バツ)』をつけては否定して、人や自分や出来事に『怒り』や『憎しみ』や『恨み』や『嫉妬』をもって責めたり苦しめたりしてしまうんだ。

 

もし・・

ある人を見た瞬間、反感を抱きイラッときたり『気分』が悪くなってしまったら、それは『無意識』のうちに『善悪の判断』をして『✖(バツ)』をつけ、その人を否定しているからなんだ。

 

つまり・・

自分ではそんなつもりはなくても『無意識』のうちに『善悪の判断』をして『✖(バツ)』をつけて否定していることで『邪気』を放っていることになり、このような『周波数』の低い『負の気(エネルギー)』を発信していると・・

 

同じような『負の気』を引き寄せてしまい、互いに『干渉』しあってしまうため情動』が引き起こされてしまうんだ。

 

でも・・

先ほどもお話したとおり、自然は『無条件・無償の愛』でぼくらをつつみ『ありのままの姿』を愛してくれるから・・

 

自然のなかにいると『思考』も『感情』も『平静(フラット)』になって『緊張』がほぐれ癒されるんだ。

 

これからの『新しい世界』では『善悪の判断』をして『✖(バツ)』をつけて否定することのない『新しい意識』に変容することがたいせつになってくるんだけれど・・

 

ぼくらの『あたま』のなかでは、人や自分や出来事に『善悪の判断』をして『✖(バツ)』をつけ否定してしまう『ラジオ(雑音)』と『テレビ(映像)』が流れていて消すことはできず・・

 

目の前で起きている『出来事』でも『人のありよう』でも『自分の考え方やふるまい』でも、自分が『悪』とみなしたことには、すかさず『✖(バツ)』がつけられ「そんなことは許さない!!」という『ラジオ(雑音)』と『テレビ(映像)』が流れてしまうから・・

 

そんな自分に気づいたら「あ~こんなこと考え、こんな気持ちになっていたんだね」「こんなことを描いていたんだね」と認め許し・・

 

「誰しもそういうところは多かれ少なかれあるよね」「まだまだ『過去』に囚われているんだね」と自分のこを観察しながらわかってあげられるようになると・・

 

どんなことを考え、どんなふうに感じている自分にも『寛容』になれて『善悪の判断』を超えていくことができるようになってくるんだ。

 

こうして・・

自分のなかに流れている『ラジオ(雑音)』と『テレビ(映像)』を受け流しながら『深い呼吸』を繰り返すことを『修練』していると・・

 

すこしづつ、波立つ『感情』がしずまり『平常・平静』でいることができるようになってくるんだ。

 

 

こうして・・

自分のなかで流れている『ネガティブ』な『思考』と『感情』に『気づき』を得ながら・・

 

目の前で起きている『出来事』でも『人のありよう』でも『自分の考え方やふるまい』でも『スクリーン』を距離をとって眺めているように、受け流し・受け流し・受け流すことを『修練』していると・・

 

多様な人(自分も含めた)の『考え方』や『感じ方』や『ありよう』や『ふるまい』やさまざまな『出来事』に対して、ある意味、受けいれられるようになってくるんだ。

 

すると・・

『暗雲』のように『モヤモヤ』した『思考』と『感情』から自分を切り離す『思考回路』と『神経回路』ができてきて『今、ここ!!』を生きることができるようになってくるんだ。

 

ここで取り違えてほしくないことは・・

 

『善悪の判断』を越えるというのは・・

 

イヤなことをされたり傷つけられたりしているのに『✖(バツ)』をつけずにいるということではないんだ。

 

先ほどもお話ししたとおり、人や自分や地球を『悪意』や『我欲』で傷つけたり『イヤな気分』にさせてしまうことを『悪(あく)』と名づけて『✖(バツ)』をつけるのは当然なことであり・・

 

イヤなことをされたり傷つけられたりしたら「イヤです、やめてください!!」としっかり伝え、自分を守る行動をすることがたいせつであり・・

 

自分自身もそのようなことをしないようにすることはいうまでもないことなんだ。

 

また、受けいれるというのは・・

 

多様な人(自分も含めた)の『考え方』や『感じ方』や『ありよう』や『ふるまい』やさまざまな『出来事』に対して、そこにある事実をそのまま認めるということであり・・

 

その事実に対して『過去』や『未来』についてあれこれ『ネガティブ』なことを思い浮かべずにいるということであり・・

 

『ネガティブ』なことで『あたま』を曇らせてしまうと『今を生きる』ことができなくなってしまうから『あたま』であれこれ判断せず『こころ』で感じたこと・・

 

例えば『心地いい』とか『気分が悪い』とか『○○したい』とか『□□したくない』とかいう自分の気持ちをわかってあげながら・・

 

自分はどうありたいのか、どんな景色を見たいのかを思い描いてから、そうなるために、どんなふうに『考え方』や『感じ方』や『ありよう』や『ふるまい』や変えたらいいのかを考え・・

 

そうなれるような『意識(思考・感情)』に変え『ふるまい(行動)』を変えていくようにすればいいんだ(自分のなかにあるものを『観察』する(『本当の自分』に気づいていく)を参照してみてね)

 

すると・・

自分の『想念』のなかにある恐ろしく辛い『過去』とそれらの『過去』から推測される恐ろしい『未来』の『映像』は通りすぎ流れていき、目の前の風景が『気分がよくなる』方へと変わっていくようになるからなんだ。

 

でも・・

どうしても次から次へと『ネガティブ』な『つぶやき』が止まず、イヤな気分になる『映像』が浮かび上がって『感情』が波立ち・・

 

受け流したくても受け流せないときは『無意識の闇』に飲み込まれているということだから・・

 

もう、こうなったら下記の絵のように天使に『あたま』や『こころ』の『モヤモヤ』を吹き飛ばし『陽の気』を吹き込んでもらう『イメージ』をしながら、ゆったりした『腹式呼吸』を繰り返していると・・

 

天使に『陽の気』を吹き込んでもらう サーアイアイ
天使に『陽の気』を吹き込んでもらう

 

『からだ』の力が『フ~ッと』ぬけて『こころ』が穏やかになり『あたま』と『こころ』と『からだ』の緊張がほぐれてくるよ。

 

神様の温かくてやさしい『祝福の愛』でつつんでもらい『神様の愛』で守られ、ここに安全に生かしてもらっていることを『イメージ』することで『こころ』が落ち着いてくると・・

 

必要以上に物事を『こわく』感じたり『疑いの目』で見たり『変な期待』をしないでいられるようになってくるよ。

 

こうして・・

『神様の愛』で『赤いハート』が満たされると、どんな自分のことも『善悪の判断』を超え『無条件の愛』で愛せるようにもなってくるよ。


ぼくらが『古い意識』から『新しい意識』に変容して『こころのままに』自由に『しあわせ』に生きられる『楽園』の『扉』を開けるためには・・

 

さまざまな『権力』の『支配』による『ルール』や『教え』により『本当の自分』を生きようとしたときに植えつけられてきた『自己卑下』と『罪悪感』と『おそれ』の『十字架』を自分でおろすことも必要になってくるよ。

 

  • 『自分らしく』いるための『個性』や好きなことや得意なことをする『才能』を『抑圧・禁止』されたことにより『自分らしい』ふるまいや好きなことを『仕事』にすることへの『罪悪感』
  • 『こころ』から好きになった人と『恋』をして、好きになった者どうしが結ばれ『ひとつ』になることを厳しく『監視・干渉』され『抑圧・禁止』されたことにより、自分の『性』を恥じたり卑しく思うようになった『自己卑下』と『恋』することへの『罪悪感』
  • 『自分らしく』いることや『才能』を発揮した『仕事』をし、自分が好きな人と結ばれることに厳しい『罰』をあたえられたことにより『本当の自分』を生きようとすることに感じる『おそれ』

これらの『十字架』を自らおろし、神様から『使命』としてあたえられた・・

 

自分で自分を『しあわせ』にする『責任』を果たすことが『楽園』の『扉』を開け『自然に還る』ためには欠かすことがでないことになるよ。

 

そのために・・

  • どんな自分にも『○(まる)』をつけ『肯定』する『自己肯定感』と自分をたいせつにする『自尊心』を高く保つ『やさしさ』
  • わきあがってくる『不安』や『心配』や『不信』などのいっさいの『おそれ』をぬぐいさり「だいじょうぶ、すべてうまくいく!!」と思える『能天気さ』
  • 『過去』に人に傷つけられたことへの『憎しみ』や『恨み』や自分がしてしまった『誤り』や『失敗』や『過ち』への『後悔』を水に流す『ゆるし』(これは、ある意味『地獄』をみなくてはならないこともあるけれど、たいせつなことなんだ)・・

これらを身につけ『図太い神経』になって、自分の『こころ』に素直に正直になれるように『ゆったり』かまえられるようになればいいんだ。

 

とはいっても・・

『周波数』が高くなってきたぼくらは『過敏』になり、ものすごく小さなことにもおびえてしまうほど神経が『繊細』になっているため『図太い神経』をもつことが、ものすごく難しくなってきているんだ。

 

さらに・・

『周波数』が高くなってきたぼくらは『神様の愛』である『真実の愛』に目覚めていく『過程』で・・

 

今まで、ずっと『無意識』のうちに抑えこんできた『からだ』の方に忠実な『ヘビ(快感・快楽をあたえる性エネルギー)』が『表』にでてきて・・

  • 『性』に対して『過剰』に反応する『獣』のような『本能』をもっている自分
  • 『快感・快楽』を満たす『嗜好』や『性』におぼれ『誘惑』や『罠』にはまりそうになる『弱い自分』
  • 『物質的』な価値を得ようとお金や地位や名誉に執着しようとする自分

が現われ・・

 

その一方で『こころ』の方に忠実にあろうとする『白ヘビ』が『表』にでてきて『ヒステリック』なまでに『ヘビ』を徹底的に『排除』しようとしてしまい・・

  • 今までなら感じたこともないような『性』への『嫌悪』を感じるようになる自分
  • 『快感・快楽』を求めることに『罪』を感じ『禁欲的』になってしまう自分
  • お金や地位や名誉に依存しようとする自分を卑しいとおとしめるようになる自分

が現われ・・

 

行き過ぎた『ヘビ』により『本能』に惑わされ『こころ』にもない『異性』に『意識=気』をもっていかれてしまう自分と、こんな自分を『理性』によって必死に守ろうとする行き過ぎた『白ヘビ』によって『本能』を抑えつけようとし・・

 

こんな『真逆な自分』が『異性』に対して『混乱』と『恐怖』を感じるようになってしまうんだ。

 

確かに・・

『恋』におぼれてしまったら『本当の自分』を見失ってしまう『危うさ』はあるものの・・

 

もともとの『ヘビ』の役割は『生存』と『子孫繁栄』のための『本能の欲求』を満たそうとする『性エネルギー』であり、これに『✖(バツ)』をつけて否定し排除してしまったら・・

 

『生存』のための『基本的欲求=食べる・寝る・排泄する』がままならなくなるばかりでなく『子孫繁栄』のための『恋する気持ち』にも『罪悪感』をいだくようになり・・

 

こんな自分を『否定』してしまうと『自己肯定感』と『自尊心』が、ひどく低くくなってしまうため『生きる糧』を得る仕事も思うようにできなくなり、生きていくこと自体がとんでもなく厳しいものになってしまうんだ。

 

こうして・・

『ヘビ』を『敵』にまわし自分のなかにある『獣』の『本性』を見ないようにしたり、許せなくなってしまうと『自意識』が『過剰』になってしまい・・

 

自分の『性エネルギー』が外にもれでてしまうため、目の前のことに『集中』できなくなり『生活』も『仕事』も『恋』も『結婚』も思うようにいかなくなってしまうんだ。

 

なので・・

人も人間であるまえに『生き物(動物・獣)』であり『からだ』の方の『本能の欲求』を満たそうとする『ヘビ(快感・快楽の性エネルギー)』が自分の『本性』のなかにあるからこそ『食』や『性』に『快感』や『快楽』を感じながら『からだ』を健康に保ち、人生を彩り豊かに潤いに満ちたものにできることを認めてあげることがたいせつになるんだ。

 

そうして・・

『ヘビ』を『敵』にまわさず『清く美しく』ありながら『神様の愛』に近づこうとする『白ヘビ(安らぎをあたえる性エネルギー)』に導いてもらえば『ヘビ』の『罠』に惑わされない『分別』をもつことができ・・

 

『ヘビ』と『白ヘビ』が共に『バランス』よくいることで『本当の自分』を見失わず、自分のなかにある素晴らしい『本性』を発揮しながら嬉々として生きられるようになるんだ。

 

でも、もし・・

『ヘビ』を許せず敵にまわし『白ヘビ』の生き方が正しいと思い込み『過信』し過ぎたり、『無意識』のうちに『ヘビ』の方に傾いている人たちを軽蔑したり見下すような『おごり』があったりすると・・

 

『真っ白』になろうとした瞬間にこれらの『過信』や『おごり』または『無意識』のうちにしてしまう『我欲』が神様にあるまじき行為として一滴の『黒インク』となり『ポトン!!』と入ってしまったことにも気づけず、一気に『黒』に反転するようなことが起きてしまうんだ。

 

行き過ぎると反転してしまう サーアイアイ
行き過ぎると反転してしまう

 

すると・・

  • あんなに立派で志が高かった人が
  • あんなに清く正義感に燃えていた人が
  • あんなに穏やかで善良だった人が
  • あんなに素晴らしい才能と美貌をもっていた人が
  • あんなに純粋で真面目だった人が・・

『真っ白』の『完璧』を目指そうした人ほど『魔』にとりつかれ、表情や人相まで変わり、生気や正気が失せた目はにごりまったく真逆の『人格』に豹変してしまうこともあるから『ヘビ』を忌み嫌ったりすることはとても危険なんだ。

 

また・・

『ヘビ』に対する『恐怖』のあまり『ヘビ』を徹底的に『排除』しようとすると・・

 

『ヘビ』がもたらす生きる『よろこび』や『甘さ』や『豊かさ』を拒むようになったり『人間くささ』さえ裁くようになり『情』に薄い『血』が通っていない『ロボット』のようになってしまうこともあるから・・

 

『からだ』と『こころ』の声に耳をかたむけ、その声にしがたい『自然な生き方』をすることで『自我』を自然とつなげ(グラウンディングし)・・

 

『ヘビ』に惑わされず『本当の自分』を見失わないブレない自分でいるための『自分軸』を中心にすえる(センタリングする)ために『胆(強い気持ち)』を鍛えることがたいせつになるんだ。

 

『胆(強い気持ち)』を鍛えるためには、おへその下にある『丹田』に『気』を集めるような『腹式呼吸(息を吸ったときお腹がふくらみ、吐き出したときお腹がへこむ)』による『自然な呼吸』を繰り返し・・

 

『内なる傷ついた子ども』がお母さんのお腹のなかで安心して呼吸している『イメージ』をすることでザワついた『感情』をしずめることができるようになってくるよ。

 

さらに・・

『完璧』をめざし『白』とか『黒』とか『0』とか『100』になってしまわぬよう『ほどほど』であることを自分に許せるよう『修練』することで・・

 

「○○でなければならない」という囚われから「○○であればいいけど、そうでなくても、まぁいいか・・」と思えるぐらいの『大らかさ』を身につけられると、自分も人も『楽に』することができ、気持ちが和んでくるようになるんだ。

 

また・・

『本能』と『理性』がせめぎあっているときには『直感』に従うことで『安全』に自分を守れるようになるんだ。

 

先ほどもお話ししたとおり『直感』なのか『ヘビ』の『そそのかし』なのかを見極めるために知っておいてほしいのは・・

 

『直感』は危険を知らせる警告』をしてくれたり、困難を乗り越える『方法』や思いもよらない『発想』や『アイデア』をわきあがらせてくれる神様からの『声』のようなものであり・・

  • 危機的状況のときにピカッと『ひらめく』ことであったり『お告げ』のように感じるもの
  • 実行されるまで止まない『ささやき声』のようなもの

であり『理屈』や『理性』を超えたところからやってくる『魂の声』ともいえるものなんだ。

 

一方『ヘビ』の『そそのかし』は『生存(子孫繁栄も含む)』と『防衛に関わる『おそれ』や『保身』からやってくる『損得』や『下心』にからむものであり・・

  • 急を要するもの
  •  『あたま』にとっさに浮かんで思わず『ニタッと』してしまうような浅はかな『悪知恵』
  • 『こころ』を置き去りにしてまでも、自分やたいせつな人の『命』や『生活』や『保身』のためならどんなことでもしようとする『悪魔のささやき』

など『本当の自分』を見失わせてしまうものでもあるんだ。

 

けれど・・

こんな『ヘビ』の『そそのかし』があったから、子孫を絶やすことなくいられたともいえるんだけどね・・。

 

なので・・

このことを踏まえた上で『直感』を選び『信頼』していれば『神聖なる野生』を『生きる力』とすることができ・・

 

『ヘビ』を敵にまわさず、自分が自分の『ヘビ』づかいになることで味方にすることができると『安全』に『本来の姿』にもどっていけるようになり、もっと自然に『人間らしく』楽しく豊かに生きられるようになるんだ。

 

すると・・

『自意識』からも『解放』されて『ヘビ』は『モンスター』を『楽園』に導く神様の『使命』を果たしたことになるんだ。

 

『生き物』という『からだ⇒物体』のなかに神様の『こころ⇒精神』を宿しているぼくらは『自然のルール』のなかで生かされていて『動物⇒獣』でもあり『植物⇒花』でもあったことを『理解』することができると・・

 

自分のなかの『獣』を生かす『ヘビ』に『○(まる)』をつけ『花』として生かしてくれている『白ヘビ』に導いてもらえると『本性』は本来の『バランス』をとりもどし『陰陽の統合』も果たせるようになるんだ。

 

陰陽の統合 サーアイアイ
陰陽の統合

 

そのためには・・

自分や人を責めたり苦しめたりする『ネガティブ』な『思考回路』から自分も人もほどき・・

 

今まで無理して頑張ってきた『生き方』をむしろひっくり返すぐらいの気持ちになって、自分や人やみんなが『楽に』なれたり『楽しく』できたり『笑顔』になれるような『思考』に切り替え『古い考え方』や『やり方』をすこしづつ変えていくようにしていけばいいんだ。

 

ただ・・

ここまでたどりつくのには、激しい『葛藤』を越えていく必要もあるんだ。

 

けれど・・

こんな『葛藤』に疲れ果て、もうどうにもならなくなり『にっちもさっちも』いかなくなったとき、ある意味『開き直る』ことができると「○○でなければならない」という『執着』を手放すことができるようになり、神様と手をつなぐことができるようになれたりするものなんだ。

 

こうして・・

すべてを明け渡し『自然の流れ』に身をまかせることで、今までのように『あたま』で判断してしまう『善悪の判断』を越えていくことができるようになると・・

 

今を受けいれながら、神様のいうとおりに生きる、つまり『こころのままに』生きることで『本来の姿』にもどっていけるようになるんだ。

 

とにかく、神様と手をつないでいるんだから『もう、こわいものなし』とも言えて、あれこれ『ネガティブ』なことを『あたま』で考えずに・・

  • どうしてもしたいことに『精』をだすようにしたり
  • すこしでも『ワクワク』できることに、毎日・毎日、励むようにしたり
  • 今の自分ができることに『こころ』をこめて励むようにしたり
  • 自分なりの『自然な生き方』を実践するようにしたり
  • 自分をよろこばせたり『リラックス』できることをこまめして『気分転換』できるようにしていると・・

『命(魂)』が『よろこぶ』ことに励み、小さなことでも『しあわせ』や『楽しい』や『いい気分』を感じ『感謝』すればするほど『命(魂)』はますます『よろこぶ』ようになるんだ☆。

 

すると・・

『自然に還って』いけるようになり、神様からは『食』も『性』も満たされる『生きる糧』と『生き甲斐』をあたえられ『自分らしく』美しく輝いて生きられるようになるんだ。

 

精を蓄え⇒精を出す『循環』 サーアイアイ
精を蓄え⇒精を出す『循環』

 

つまり・・

自然界の『生き物』たちのように『ありのままの姿』で嬉々として、日々、精一杯『命』を燃やして生きている・・

 

ただ、それだけで美しく輝き『しあわせ』に生きているだけで、神様から『授けられた仕事』をして『役割』を果たし、この世に奉仕できるようになるんだ。

 

こうして・・

古い『思考回路』と『神経回路』はすこしづつ弱まり、新しい『思考回路』と『神経回路』が強くなってくると、これが『DNA』に組み込まれ『古い意識』から『新しい意識』に変容できると、ぼく、サーアイアイは感じているんだ。

 

『古い意識』は、ぼくらが『本来の姿(ありのままの自然な姿)』の『本当の自分(『個性』や『才能』を活かしている自分)』を生きようとするときに、やってくる『暗雲』のようなものなんだ。

 

だから・・

こんな『暗雲』を受け流してしまえれば、そこには『青空』が広がり、さんさんと降り注ぐ『陽の光』から『神様の愛』である『無条件・無償の愛』を受けとることができると『自然に還る』ことができるようになるんだ。

 

ただ・・

思うように『暗雲』を受け流すことができないでいる場合は、きみのなかにいる『内なる傷ついた子ども⇒影』が『ありのままの姿』で『自由』に生きることにまだまだ『おびえて』いて・・

 

『コントロールの世界』による愛のなかで、なんとか生き延びようと身につけた『古い意識』を手放してしまったら生きていけないと思い込んでいるだけなんだがら・・

 

「だいじょうぶだよ、自分を信じて!! 神様を信じて!!」とやさしく説得し続けていれば『おそれ』を克服できるようになり、こうやって、安らげば安らぐほど『新しい意識』に変容しやすくなっていくんだ。

 

あのね・・

この世の一番の『真理』は、すべては『変化』するということなんだ。

 

だから・・

『古い意識』から『新しい意識』に変容することは『変化』のひとつとして自然になされていくものであり、これも『自然のルール』ということになるよ。